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延命と罪悪感と胃瘻

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「胃瘻がある方が介護しやすいですよ」と医師~日経メディカル~

『家で介護できないのなら、胃瘻にしてしまえば入りやすい。』そんな助言を医師がしたことから始まる、価値観、人生観、死生観に応じた治療の選択はできないか?と考えるエピソードだけれども、私が引っかかった言葉は、

『医師になる教育の学びは治療をすることだ。看取りのように、見守る治療は職務を放棄したような気がして、罪悪感にとらわれるんだ』

という延命治療に対しての先生の答え。

つい最近まで、胃瘻のお年寄りが一人いた。もともとは自分でご飯を食べていて元気だったのに、ある日、突然、食事を食べなくなって、工夫をしても介助をしても食べなくなった。衰弱していくその様子を心配した職員が家族に相談して通院したら胃瘻に改造されて帰ってきたという下り。

私が施設に入職する前からその老人はいた。そして、私が入職したときにはすでに胃瘻だった。

美しく精巧なお年寄りの作り物。それが私のそのお年寄りをみた感想だった。肌は水々しく皮膚も他の頑張って食事をしているお年寄りも張りがある。完全に栄養や身体の管理をヒトに任せた状態で生きて10年、具合を悪くすることもなく、ある意味で元気。

胃瘻の提案を受ける時、その場に本人はいない。高齢者が胃瘻になるときは、もう意思の疎通もとれない状態であることが多いからだ。家族と医師の間でそれは決められる。そんな時、家族はどんな気持ちなのだろう?医師はどんな気持ちでそれを勧めるのだろう?そんなコトをあの頃は考えていた。

そして、この記事を読む時、あぁ、、、なるほどと素直に思う。

  • 医師は何もしないコトが職務放棄のような気がして罪悪感にとらわれてしまう。
  • 家族は自分の手(答え)で父親、母親の命を終わらせてしまうことが親不孝な気がして罪悪感にとらわれてしまう。

これは介護職も同じで、何となく使命を『生存』させるコトに寄っていると感じることがある。お年寄りを扱っている以上、死は目の前にあって避けられないものなのに、それを忌み嫌う傾向がある。また、状態が悪くなっていても、『もう少し』なんとかなるのではないか?というか細い希望を持つことがある。ヒトの死から全力で逃げていることがほとんどのような気がする。

でも私は、冒頭の先生の言葉を借りるのならば、

『介護職になる教育の学びは(残りの人生を)よりよく生きていただくお手伝いをすることだ。延命治療のようにただ生存させているだけの状態は果たして生きていると言えるのか?その意味を考えるとき、罪悪感にとらわれる』

こんな思いがある。介護職に関してのみ言えば、おそらくヒトの死から逃げること自体が罪だと感じるんだ。

 

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