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或る老人 理想と現実の狭間で

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その老人は家族の世話になるくらいならと施設の入居を決めていた。すでにその奥方は逝去している。施設で亡くなったのだと言う。その施設の彼は何を見ていたのだろう。決めるだけの何かがあったのだろうか?それは彼の口から語られることはない。

認知症のない彼から希望された施設への入所希望は遠方に住む家族にとって救いだった。年をとり衰え、自分のことが日々出来なっていくそれを家族が看ることは困難であることは目に見えていて、嬉々としてそれを受け入れた。故に彼の帰る場所はもうない。まず肩慣らしにと入所したショートステイで1週間、彼は言う、ここには自由がない、食事も粗末だ、でも家に帰りたいとは言えない、プライドが邪魔をする。家にいても孤独だったが、彼曰く、ここでも孤独であるらしい。完全なホームシックである。しかし彼の手には往復ではなく片道の切符しかない。

施設に入所したとしても、家にいるときと同じように、気ままに過ごせると考えていた。自由に必要な支援を受け、、、。しかしながら、彼は自由に過ごすには衰えすぎた。それに気がつかない。必要な支援が多すぎるのだ。自宅では適切な介護を提供するだけの能力に欠けていて、その結果、皮膚病を患い、内臓もすこぶる痛んでいる。自分でいろんなことができていると錯覚していただけで、本当は必要な支援を受けることができなかっただけなのである。昼も夜もなく好きな時間に寝ていたと考えていたが、実は昼夜問わず寝かされていただけで、好きな時間にものを食べていたと考えていたが、実は食事の世話をする者がなく、冷蔵庫を漁るしかなかった、ただそれだけである。それが故に彼は年以上に心身共に痛んでいる。だからこそ、施設では失った機能の一つ一つを改善していこうと支援するのだが、彼にとっては苦行でしかないようだ。

入所してから家族に自分の窮状を嘘を交えてそれとなく訴えるようになった。家族はそれを聞いても心動かされることはない。それは遠くで聞こえる鳥のさえずりのようなものだ。 そうしていくうちに彼の体は諦めるようになった。トイレにも行かず、慣れ親しんだ尿器を使うこともなく、ただ垂れ流す。しかしながら彼の体は諦めていても、脳はそれを認めない。その惨めさが彼の心をさらに蝕んでいく。齢90歳を越えて体が終わりを告げる前に、彼の人生だけがエンドロールを流している。

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