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Essential Dementia Care Guide 0 “ワタシ”の福祉・介護理念

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私は萩原朔太郎という詩人が好きだ。彼の詩は私がビジネスパーソンであったとき、経営者であったとき、そして今、いち介護者であったとき、その全ての場面で私に光を照らしてくれた。彼は私にとって最も親しい師のような存在である。

 

  私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

萩原朔太郎 詩集 『月に吠える』 序より抜粋

 

彼は言う、障害を抱えたヒトたちの目に映るその世界はわたしたちの想像の及ばない摩訶不思議な世界だが、同時に、それは彼らにとって正に“真実な事実”としてそこに在る。そして、彼らがその窮状を訴えようとするとき、もしも相手がそのコトについて専門的な知識を持っていなかったのだとしたら、そこにどんなに残酷な仕打ちが待っていることだろうと。介護の世界に置き換えるのなら、介護職がその症状について無知で無理解な人間であった場合、その先にあるのは不適切なケア、虐待であるということである。つまり、障害をもったヒトというのは、常にそんな恐怖に晒されているということだ。

もしも、世界中のヒトが詩人であったのなら、その詩人の感性を以て、表現しまたそれを解することで相互に理解を得ることができたであろう。しかしながら、残酷なことに、その窮状を訴えたいそのヒトも、そしてそれを聴くべきわたしたちも、ほとんどの場合、詩人ではない。故にわたしたちは、せめてその障害を持ったヒトたちのそれについて正しい知識を持ち、接することが必要なのである。

彼は続ける。ヒトはとてもとても孤独な存在なのだと。幾億万人という人間があるにも関わらず、わたしたちの顔は、わたしたちの皮膚は、ひとりひとりにみんな異なって居て、異なる神経と感情を持ち、それは自分を“ぽつねんと切りはなされた宇宙の単位”と錯覚させるに足るものだが、ヒトは本質的にひとりひとりにみんな同一のところをもっている。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのだと。

障害をもったヒトはその能力の低下によりその孤独から抜け出す術を持たない。故に援助者が必要となる。この“共通”を発見する手助けこそが介護者であるわたしたちの仕事である。

そして彼は、この序の中でこうも述べている。

 

 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。

萩原朔太郎 詩集 『月に吠える』 序より抜粋

 

詩とは“障害をもったヒト”であり“わたしたち”である。そして“詩”はわたしたちの中にある共通の部分とも言える。わたしたちはその感性を通じて、孤独の中に為す術もなくある彼らに寄り添う“看護婦の乙女”でなくてはならない。そして、そのふるえる胸の上置かれる“手”こそが“福祉”だ。

これが“ワタシ”の福祉・介護理念。

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