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“artext.design”はただのブログです。 一見、何の変哲もない静かなブログですが、 いつでも野望は100万PV。 私は文で呼吸したい。


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“学ぶ(真似ぶ)”を邪魔する“オリジナリティ”という欲求

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『学ぶ(まなぶ)』の語源は、『学ぶ(まねぶ)』と同源で、『真似る』とも同じ語源である。

 

 

 よくよく考えて見ると、私にとって今まで欠けていたのは、『まねぶ』コトのように感じる。そして、多くのヒトが実のところ『まねぶ』ことを心のどこかで嫌っている。

 今は良い時代になって、インターネットとスマホの普及で、誰もがクリエイターとなって、YouTubeを利用すれば、自分の楽曲やパフォーマンスを、ブログやSNSを利用すれば、文章や絵を、Instagramなどを利用すれば手軽に写真を、簡単に世の中に出すことができるようになった。今まで、一部の才能のある人間にしか許されてこなかった(と思い込んでいた)世界に足を気軽に踏み入れることができる。消費側ではなく、自分が生産者になるという喜びを感じさせてくれるようになった。

しかしながら同時に、誰もが簡単に踏み入れるコトができるその方面の一丁目でヒトは大きな勘違いをしてしまうことがある。早い段階での“オリジナリティの追求”だ。

クリエイターにとって、オリジナリティはもちろん大事で、それは、目標であって、また、消費が激しいこの世界で常に追い求めていくべき一生の課題でもある。しかし、それを表現するには、才能よりも遥かに、その才能を具現化していくだけのバックボーンが必要になってくる。よく、『才能』がないだとか、『才能が枯渇した』というコトバを聞くことがある。私もずっと昔、音楽を諦めた頃、そんな言葉を吐いた。しかしながら、今にして思えば、それは大きな間違いで、私は私の中の才能を具現化するべき教育を自らにしてこなかったことに気づく。私の中のアイデアや思い、取り留めのない雲のように浮かんでは消える“何か”を言語化したり、音にするだけの力を培ってこなかったというだけなのだ。そして、それを邪魔したのが紛れもなく、“オリジナリティの追求”だった。

古来から日本には“守破離(しゅばり)”という素敵な言葉がある。

守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。個人のスキル(作業遂行能力)を3段階のレベルで表している。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

 “守”とは、教えてもらってできる、教えてもらったことができる、ということだ。下積みの段階でそこにオリジナリティはない。音楽で言うのなら、ひたすらスコアとにらめっこしながら、ひたすら技術を吸収し、完コピを目指すことと言える。“破”とは、自分なりにそれを解釈し、考えを持ってそれを崩す、音楽で言えば、アレンジをする段階と言える。そこには、一定のオリジナリティはあるものの、元の型(原曲)があるワケだから、未だそれは下積みの中にあり、『真似ぶ/学ぶ』の段階である。実に世の中の偉大なクリエイターたちは、この部分の基礎に信じられないほどに時間をかけている。(そこで終わってしまう人も多いが、、、)そして、その上で、自分の中にある“何か”を苦しみながら具現化し、既存の型を超えてオリジナリティを獲得していく“離”の段階に入る。

この“離”の段階に入るタイミングを間違えば地獄だ。何かしらの“きっかけ”で、自分の中にある才能の“声”の一部を具現化できてしまうことがある。今まで感じたことのない感覚にヒトは興奮を覚える。そして、そこで『学ぶ/真似ぶ』を止めて、より自分を満たしてくれるであろう『創造/生産』にシフトするが、それはほとんどの場合、長続きはしない。才能の声は突然沈黙する。歴史的にも早熟や天才と言われた人間の末路は悲しいものが多い。

ヒトは心の中で、自分はヒトとは違う、特別な存在である、多かれ少なかれこんなコトを願い想っている。そんな欲望の大きさに呼応して、世の中は様々なサービスを次々に提供してくれる。しかしながら、ユーザーは発見した才能の一部をそこに投影し高揚感を覚えるが、下積みのないそれはほとんどの場合、長続きしない。いっときの高揚感を求め、誰もが簡単に踏み入れるコトができるその方面の一丁目を巡回しながら、“学ぶ(真似ぶ)”機会を失い、そして、忘れ去られ、消耗する。

誰もが欲しがるオリジナリティや自分らしさというものは、そんな手軽に手に入るものではない。オリジナリティの追求は、結局、膨大な“学び(真似び)”の先にある。

 

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